信仰と宗教2世
2022年に安倍晋三が統一教会の信徒を親に持つ男性によって演説中に暗殺されてからしばらく、宗教二世というものが日本で話題になった時期があった。
今やその言葉も当たり前に世の中に広まり、宗教二世問題というものは若干飽きられているように思える。
「宗教」という言葉を聞いたときに日本の人の頭の中に浮かぶ風景というのは、キリスト教、イスラム教、仏教のような伝統的な宗教ジャンルや日本特有の神道、天皇制というより、オウム真理教、創価学会や幸福の科学ではないだろうか。これらの新興宗教は宗教の外側の社会に対してなんらかの影響力をテロや政治、エンタメによってもたらしている点から、多くの人の印象に残るのだろう。
日本には宗教的慣習が根付いているから、日本人は実は無宗教ではないというような言説がある。
確かに、年末年始や盆、七五三や葬式など、日本に生きている人の生活にまつわるイベントは実際のところかなり宗教的ではあるし、信仰がないという人であってもとりあえず周りにしたがって宗教的実践をするものである。
一方、何だかそれはキリスト教の人が神という言葉を使うときの心理とは相当に異なる心理のように思える。
宗教を信じる、具体的な信仰を持つ、というのはこうした住んでいる地域の慣習というよりもより強烈な心理的な動きがあるものだと思う。
ウイリアムジェームズの宗教的経験の諸相という本に、そういった例が多く書いてある。
The Varieties of Religious Experience - Wikipedia
このような書籍と、僕が出会ったことのある多くの周囲の人たちを見る限り、信仰に駆動されて生きている人は少数派のように思える。実際、多くのアンケートでは信心深くないとか無宗教だと答えている人が多い。
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20190401_7.pdf
さて、自分自身を振り返ってみるとどうだろう。
実際のところ、僕は創価学会の二世である。多くの二世がそうであるように、小学生高学年や中学生くらいになると信仰実践に対する反発のようなものが生まれ、それからは信仰実践から離れる。
では、信仰実践とはなにか。
創価学会はもともとは日蓮正宗の在家信徒団体(法華講とか、講という)であった。通常、お寺には出家した僧侶と在家の檀家がいるという構造だと思うが、それみたいなものである。
そういう構造なので、かつては創価学会に入ると自動的に日蓮正宗に入るという仕組みになっていた。
日蓮正宗は創価学会が拡大するまでは別に日本の仏教の中で大きいわけではなく、創価学会が非常に拡大したため、信徒のほとんどが創価学会員という状態となっていた。それで色々あって日蓮正宗本山(大石寺)と創価学会が対立して本山から創価学会員ごと破門された。
現在は創価学会員は日蓮正宗に所属していないし、創価学会自体も日蓮正宗と関係がない。(よく池袋にいる、顕正会という宗教もこれとは違う理由で日蓮正宗から破門された団体である。創価学会とは兄弟みたいなものだ。)
そのため、信仰実践のベースは日蓮正宗と同じで、毎朝毎晩仏壇に向かってお経を唱えたり、日蓮正宗の布教をすることである。
このお経というのが面倒で、勤行と呼ばれる、法華経の一部分を仏壇に向かって唱えなければならない。方便品、寿量品を唱えたあと、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と何度も唱え続ける。
(今でも思い出せる、漢字なぞ読めない未就学児なのに「みょうほうれんげきょうほうべんぽんだいに、にじせそんじゅうさんまい」と唱えていた)
大体これが1セット最低15分はかかるため、毎朝毎晩なんてやってられないのである。
(余談だが、日蓮正宗の勤行は創価学会の勤行よりも長い(45分くらいかかると思う)、創価学会は国外への布教にあたり、勤行を短くして、それが国内にも導入された)
あとは、毎週だれかの家にいって自らの信仰実践を話したり(これを座談会という)、地域の大きな会館にいって池田大作のビデオをみたりするということをする。もちろん両方の終盤には勤行を行う。
このような宗教実践と同時に、独自の用語や世界観をインストールされる。
いろいろあるが、代表的なものは、「勝利」や「宿命転換」である。創価学会の信仰はとにかく何らかの出来事に勝利することが求められる、仕事でも病気でも受験でも、自らの苦境というのは信仰によって乗り越えるべきものであり、それに勝利しなければならない。運命は過去からの因縁であり、仏法の実践により転換しなければならない。そういったことだ。
そのために何が必要か、勤行である。
なににせよ、病気には勤行、受験には勤行、仕事には勤行ってわけで、物事を良い方向に進めたければ勤行をしなければならないし、いいことがあれば勤行のおかげなのである。
これは学校教育とは結構異なる理屈であるため、小さな頃は反発したものである、例えば
「何らかの成功は本人の努力によるものなのだから勤行は関係がない、非科学的だ」
というように。もっとも、このような公正世界仮説的理屈も別にそこまで創価学会の信仰と変わらないとわかるのはもう少ししてからだが。
あとは、多くの人で構成される集団が同時に同じことをする環境にいると居心地が悪くなるADHD/ASD的傾向もあったからそういった場が苦手だった。
多くの信仰から離れた二世と同じように、僕自身の世界と親の信じるものは結構異なる。宗教二世というものが問題になるのは、親の信仰と子の信仰が異なってしまうときである。別に信じる宗教に時間やお金が搾取されていたとしても、同じ信仰を共有していたら本人にとっては問題にはならない。また、僕と親の信仰が異なっている場合でも、特に中学生以降それで不利益を受けたことはないため、僕としては大きな問題にはならなかった。というか、信仰の実践も年を経るごとにライトになっていて、たまに家に創価学会の人が来たときに勤行して話すとかその程度になっていた。これは、2010年ごろ以降池田大作が表舞台に出なくなったことが大きいのだろう。創価学会というのは信仰実践のベースは日蓮正宗だが、結局のところ池田大作の存在が大きい、彼の著作、彼の言葉、彼の映像、彼の写真を創価学会員は大切にしている。というか信仰している。彼が元気なうちは彼に関する新たなコンテンツが供給されるが、それが急に先細ると飽きるというものである。
じゃあ全く問題がなかったのかというと、それはまた別の話だ。
多くの宗教二世はあたかも最初から信仰がなかったかのように振る舞う。その気持ちはわからなくはない、今現在自分が信じていないものをかつて信じていたとは思いたくないものだ。しかし、生まれたときから自分の周りにある前提のようなルールや実践、アイコンを最初から疑うことはなかなか難しいように思える。僕は未就学児のときから勤行を唱えていたし、小学生のとき初めて怖い系ジェットコースターに乗ったときも怖すぎて「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」唱えていた。周りの家はみんなそうなのだと思っていたし、日本で一番偉い人は池田大作だと思っていた。小学校に入ってから、どうにも世間と自分の家は違うルールで動いているのだなと気付く。
その後、どうにも信仰を隠したほうがうまく学校という社会を生きることができると考え、疑問を持った結果信仰を否定していく、その入口が単純な因果や論理になる。
そのような信仰の解体、否定は高学年から中学生になると確立する一方で微妙な違和感は残り続ける。
さらには、今でも本尊と呼ばれる仏壇に格納されている日蓮正宗の文字曼荼羅、巨大なホールで全員一体となって唱えられるお経、池田大作の顔、喋り方は鮮明に脳に浮かべることができるし、もし死にそうになったとしたら南無妙法蓮華経と唱えてしまうかもしれない。これらは、日本語を十分に覚える前から刷り込まれたものなので、消し去るのは難しいだろう。というかもう消そうとはしていない。昔はしていたかもしれない。
このような、強烈な意味をもつパッケージを前提としている自分自身について、それをかつては否定したり、相対化したり、長い時間考えたりしなければいけないという状態は大した問題ではないかもしれないが問題がないわけではないと思う。
別にそれで親や創価学会を恨んだり、発達段階の初期にある人に対して宗教を教えることを否定したりはしない。
多少世間の論理のずれはあるにせよ、基本的には穏当な集団である。
選挙の時期うるさいいという問題はあるし、過去には公職選挙法違反事件や強引な勧誘をしていたという事実はあるが、現在は強引な勧誘は公式的には行われていない。
宗教を早期にインストールすることだって、シンプル化した因果応報的世界観をマイルドにおしえることと、真相とは程遠いという意味で変わらないし、その内容だって反社会性はない。
だが、2010年以降の池田大作の隠居以降、信仰が冷めたり、信仰以前の自己にもどることができるというのは、成人以降に信仰を後付した一世の特権である。消せないもしくは消すのが難しいほどの時期に信仰実践や世界観を自分の名前の漢字より先にインストールするなんて、なんてことをするんだとも思わなくはない。
というわけで、信仰というものが人に与える影響は計り知れない。
今だって、僕は信仰というものに対して自分が何を考えていて何を持っているのかという確信はない。
少なくとも、僕が見てきた現象や内面に起きていたことは世間一般とはそれなりに異なるもだと思う。
このような前提があるから、世間一般で語られる信仰や宗教の議論は、なんだかすべてにフィクションの世界の出来事のように思われる。
Twitter(現X)をしばらく見ない
Twitter(現X)は楽しい。
スワイプをすれば誰かの発言や考えが滝のように流れてくるし、たまに何らかの反応をされるとそれに対して何らかの反応をしたくなる。
でも本当は楽しくはないかもしれない。
ネット上の発信というのは昔から玉石混交だ。ネット上の文章がそのまま書籍化されるような作家も生まれれば、思慮浅く不確かな情報に踊らされてデマを振りまく人間も多い。
ここ最近、後者に触れることが本当に嫌になってきた。最近も、以前何度か話したことのある人が外国人ヘイトコンテンツにハマってしまい、誰がどんな目的で作ったかわからないデマヘイトアカウントの内容をRTしたりして気持ち悪かったため、「検証なしにデマを拡散する行為は軽蔑する。馬鹿かお前?」というような内容を送ってフォロー解除した。
他にも、優秀なエンジニアがクソみたいな信念を強化するためにゴミみたいな思いつきを大発見のように述べたり、デマ臭いアカウントをRTすることが本当に多く、このプラットフォーム上で目にするものに強い怒りを持ってしまうことが多くなった。これは僕の精神面の健康がもともとあまり良くないこともあるし、そういったアルゴリズムがTwitterにはあるのかもしれない。
いずれにせよここ最近あまり面白くないのでログインをしないようにしている。今の所一週間続いた。ふと小さな待ち時間が発生すると「Twitterやりたいな」などと思ってしまうし、先日はTwitterをする夢をみた。
代わりにYahooニュースを見る時間やニュースをYoutubeで見る時間が増えたので別に可処分時間は増えてない。
いつまで続くかはわからないが、今のところTwitterをしないことによる不都合と言ったらこれくらいだ。
あ、Hatena Blogで書いた内容はこのまま連携されます。あしからず。
何かを理解することは困難、または不可能
最近皆様は移動中とか誰かを待ったり飲食店に行ったときなど、暇なとき何をしているだろうか。
僕はTwitterを見たり、Kindleで本を読んだり、Youtubeを見たり、Geminiを使ったり、実体のある本を読んだりしている。こうして列挙してみるとスマホ中毒気味なことを痛感させられる。
あ、あと最近口の中身を動かしていろいろな言語の発音練習をマスクの下でしたりしている。
このように、(最後はともかくとして)このようなことをしているとき、文章なり動画なりを見ながらその内容を理解しようとして、その内容を覚えたり、それに対する意見を持ったりするものだ。
例えば最近だと、法華経の解説や、言語に関する書籍を読んでいる(チョイスが私文感あふれるね。そして卒業して何年も経っていまだに入試方式の話をしているのはいかがなものかとも思う)。
さて、このような文章や動画を僕は理解しているのだろうか?
なぜこのようなことに思い至ったかというと、最近この演説の動画を見た。
全文を引用しよう
被爆80年目の8月6日を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、今なお苦しみの絶えない被爆者や御遺族の皆様に、心からお見舞いを申し上げます。
草木も生えぬと言われた75年からはや5年、被爆から3代目の駅の開業など広島の街は大きく変わり、世界から観光客が押し寄せ、平和と繁栄を謳歌しています。しかし同時に、法と外交を基軸とする国際秩序は様変わりし、剥き出しの暴力が支配する世界へと変わりつつあり、私達は今、この繁栄が如何に脆弱なものであるかを痛感しています。
このような世の中だからこそ、核抑止が益々重要だと声高に叫ぶ人達がいます。しかし本当にそうなのでしょうか。確かに、戦争をできるだけ防ぐために抑止の概念は必要かもしれません。一方で、歴史が証明するように、ペロポネソス戦争以来古代ギリシャの昔から、力の均衡による抑止は繰り返し破られてきました。なぜなら、抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理的真理ではないからです。
自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ、高揚した民衆の圧力。あるいは誤解や錯誤により抑止は破られてきました。我が国も、力の均衡では圧倒的に不利と知りながらも、自ら太平洋戦争の端緒を切ったように、人間は必ずしも抑止論、特に核抑止論が前提とする合理的判断が常に働くとは限らないことを、身を以て示しています。
実際、核抑止も80年間無事に守られたわけではなく、核兵器使用手続の意図的な逸脱や核ミサイル発射拒否などにより、破綻寸前だった事例も歴史に記録されています。
国破れて山河あり。
かつては抑止が破られ国が荒廃しても、再建の礎は残っていました。
国守りて山河なし。
もし核による抑止が、歴史が証明するようにいつか破られて核戦争になれば、人類も地球も再生不能な惨禍に見舞われます。概念としての国家は守るが、国土も国民も復興不能な結末が有りうる安全保障に、どんな意味あるのでしょう。
抑止力とは、武力の均衡のみを指すものではなく、ソフトパワーや外交を含む広い概念であるはずです。そして、仮に破れても人類が存続可能になるよう、抑止力から核という要素を取り除かなければなりません。核抑止の維持に年間14兆円超が投入されていると言われていますが、その十分の一でも、核のない新たな安全保障のあり方を構築するために頭脳と資源を集中することこそが、今我々が力を入れるべきことです。
核兵器廃絶は決して遠くに見上げる北極星ではありません。被爆で崩壊した瓦礫に挟まれ身動きの取れなくなった被爆者が、暗闇の中、一筋の光に向かって一歩ずつ這い進み、最後は抜け出して生を掴んだように、実現しなければ死も意味し得る、現実的・具体的目標です。
“諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ。”(THE NOBEL FOUNDATION, STOCKHOLM, 2017 広島県による翻訳※)
這い出せず、あるいは苦痛の中で命を奪われた数多くの原爆犠牲者の無念を晴らすためにも、我々も決して諦めず、粘り強く、核兵器廃絶という光に向けて這い進み、人類の、地球の生と安全を勝ち取ろうではありませんか。
広島県として、核兵器廃絶への歩みを決して止めることのないことを誓い申し上げて、平和へのメッセージといたします。
令和7年8月6日
広島県知事湯崎英彦
※「諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ。」は、平成29(2017)年12月10日に行われたノーベル平和賞授賞式でのサーロー節子氏のスピーチを広島県が翻訳したもの。
さて、この中でかなりメッセージ性の感じられるところというのは以下の部分ではないだろうか
抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理的真理ではないからです。
一方でコメントにはこのような反応も見られる
@tomTOM-qf3hy
4 日前
核なき世界、戦争なき世界もフィクションなんよな。
@pod5262
3 日前
人類の平和もフィクションって人類の歴史が証明しているよな…
この二つのコメントの投稿者は基本的にかなり物事の理解に困難があると思う(近年においてはこのようなコメントが本当に人間によって行われたものなのか怪しいとか、あるいはまた別の目的を持った人がこのようなコメントをあえて残しているということは普通に考えられるが、今回はこれらのコメントを意思のある人間が素直にコメントしていると仮定している)。
知事のスピーチにおける「フィクション」の用法は万有引力の法則のような普遍的な物理法則と対比するものとして使われている。それを補強する内容も多い。
- 核抑止はその登場人物が合理的な判断に基づいて行動することが前提
- 力の均衡が働いているかどうかは、客観的な事実ではなくてあくまで登場人物の頭の中の考え
- 抑止はペロポネソス戦争以来破られてきた歴史がある
- 国際社会における登場人物は常に合理的な判断をするわけではない
- 例: 日本は合理的な判断を誤ってアメリカとの戦争に突入した
- 核抑止も危うい綱渡りによって現在まで続いたもの
- 例: 核使用手続きの意図的な逸脱や拒否
このような前提を踏まえると、核抑止はそこまで頼りになる、頼りにしていいものなのか?もしかしたら何かのきっかけで破られるのではないか?
ということに疑問を投げかけているので、「フィクション」という言葉を使っているわけである。
これに対して、「核抑止がフィクションであるのであれば、平和や核のない世界もフィクションである」と述べることで彼らは何かを主張している。
ここで彼らが持ち出した「フィクション」は、普遍的な法則と対比されるフィクションとは異なるはずだ
彼らは言うなれば核のない世界や平和は現実から離れた夢物語だと主張したいのだろう。
この演説の中で広島県知事は現実を何も否定していない。しかしその現実は危うい綱渡りを繰り返し続けている、その現実を絶対的な法則として諦めることなくより良い方法を探すべきだと言うことを主張しているはずだ。核廃絶が仮に人類に不可能であったとしても、それを目指すことを訴えること自体は広島県を代表する人物として当然のことだ。彼にそのための実行的な権力があるわけではないが、このような人物がこのような状況でこのようなメッセージを打ち出すというのは無意味ではあるまい。
一方でフィクションという単語に条件反射的に反応し、その言葉の指す意味を勘違いしたままコメントを残すことほど無意味なことはないと思う。
とここまで書いて、この演説に限らず多くの文章や人の発する言葉というのは理解が難しいものが多いと思った。僕は今回の広島県知事の演説内容を理解していると思うしその理解は難しくないと思っている。
だが、これを理解できる人は世の中のどれくらいの割合なのだろうか。
たとえばこの演説は核抑止や世界史の出来事を前提としているし、物理法則とフィクションのような対比関係を多く使うという構造を持っている。
これらを理解できなかった場合人がどのような反応を示すかというと、先程引用したYoutubeのコメントのように、単語にのみ着目し何も理解していないコメントを残すことになる。
このようなことを考えてみると普段自分が読んでいる書籍や文章なども果たしてちゃんと理解しているかは疑問が残るし、自分が他の状況においては彼らと同じようなことをしているはずだと思うと恐ろしくなる。
何かを理解するのは本当に困難、または不可能。
本当に絶対に踊りたくない
勤め人の常として人と食事をするということがある。
それは同じ職場の人であったり取引先であったりいろいろだ。
そういった食事は単なる栄養摂取以上のものを人の感情や関係にもたらす。
というわけで沖縄の民謡居酒屋的なものに会社の行事の一つとして行ってきた。
勤め人としての食事は友人間のものとは異なって割と建前や態度も仕事上の何かに間接的に関わってくるものだ(プログラマーだったときの飲み会はもっと仕事色は少なかった気がする)。
さて、沖縄居酒屋のパフォーマンスとして披露される演目は別に伝統的なものではないと思う。沖縄の楽器を使って沖縄を感じさせるような曲調(リズムなのかメロディーなのか知識はない)ではあるが、上に乗っている歌詞がほとんど本州の言葉だったし、エンタメ色が強い。
(かなり余計なことだが、伝統文化を発展させたり守ったりするという目的のためにこの手の改造された演目って良いことなのだろうか?いずれにせよ、踊りとか演奏とか、感受しやすい伝統文化ばかりが残ってしまうのは面白くない気がする。)
そのような演目は必ず客を巻き込む時間が存在する。
例えば客席に座ったまま手を左右に動かして一緒に歌うとか、ある程度場が盛り上がったら舞台に客が上がって踊ったりとか、そういうのが主目的なのだ。
僕はそのような場が楽しいと思ったことが無いし、ある程度社会性を持っている(本来なら特定の政党を支持する人をめちゃくちゃ馬鹿にしたいが人前ではそこまでやってはいない)のにもかかわらず、手すら挙げないし絶対に踊らない。
思えば、好きな音楽家のライブに行ったときも手すら挙げず絶対に踊りもしなかったから、人前で手を挙げたり踊ったりが難しいのだろう。
よくそのようなことを言うと、「自意識過剰、誰も人のことなんて見てないよ」と言われるが、僕はそのような場で人がどうやって振る舞ってるのか凄く気になるしそれぞれの人の振る舞いを割と覚えているので、単にお前がそれを気にしてないか記憶力が低いだけだと主張したい。
なぜ人前で踊ったり手を挙げることが難しいのだろうか。
その時の感じていたことを思い出すと
その曲が好きではない
人を沖縄的感覚に持ち込むことと、酒席の盛り上がりを主な目的としていて面白くはない
その意図通りに動くことがなんとなく許せない
安易さに操られるものかという信念
さらには
そもそも身体の操作が得意ではなく、リズムやメロディーに合わせた動きができない
そのような前提でぎこちない動きを人に笑われたら恥ずかしい
人と同じような感情を共有して同調するのが気持ち悪い
そんなところだろうか、書いていて信念とか出てきたけど、これによって何かを成し遂げたりとか得をしたことはない。自家製の檻をつくってそこから出られないと言っている愚か者といった感じはある。
これが楽しいと思っている人の気持ちは分からないことはない。
純粋な体験として音楽や周囲に身を任せることは人に心地よさや安心感を感じさせるという性質があるのはわかる。
それ自体は僕も感じるところがあるが、それ以上に居心地の悪さや嫌悪感が生まれてしまうのが面倒くさいところだ。
よく、祭りは盛り上がらないのは損だという主張がある。損得をその時点で楽しめたか楽しめなかったかという点で考えるとそれは正しいのかもしれない。
でも俺はそうやって物事を受け入れるのが楽しくないんだ本当に。
激安の物語
その結果として与党自民党公明党は大きく議席を失い、その一方で新興の政党である参政党は多くの議席を獲得した。
あらかじめ断っておくと僕はこの政党そのものや候補者や支持者が好きではない。彼らも僕に好きになってもらおうとは思わないだろうしその点は特に問題はない。
何が嫌いかというと反科学的な政策やおよそ実現不可能に思える政策、差別的な言動、大日本帝国とその行った侵略や植民地政策の美化など枚挙にいとまがないが、究極的には彼らの打ち出す安っぽい物語が嫌いだ。
その安っぽさというのは前述した通り、日本の過去の戦争における虐殺や行いを美化したり、素朴に無農薬を謳いながら食料自給率100パーセントを主張してみたり、どういうわけか神道教育を推進してみたり(大日本帝国へのなつかしさ?)、既存の歴史認識(主に大日本帝国の所業だろう)を間違っているといってみたりとかそういう思慮の浅さだ。
常々こういうのが好きな人はいるよねとは思っていたが、それがこんなにも盛り上がるということは思ったよりそのような物語は人の支持を集めるらしい。
個別の項目には細かく反応しないけれど。
さて、そのような現実に対して絶望しているようないわば僕の仲間のような感情を持つ人々(仲間だと思ったことは一度もないが)はこんな感じの考えを発露する。
例えばアメリカで起こっていることをあてはめて、JDヴァンスの書いたヒルビリーエレジーを引用してみたり、参政党支持者は見捨てられたひとたちなんだと主張してみたり、リベラル(リベラルってなんですか><)が彼らを馬鹿にしたせいだと主張してみたりする。
実際それは妥当なんですか?という検証をなにもしないまま同情的で賢そうに見える物語を現実にあてはめて何かを主張してみるのは楽しいのだろうか。
結局彼らもまだ結論も出ていない現象に対してそのへんで手に入る激安の物語をあてはめているだけなのだ。
ところで今回躍進した野党の中には国債発行による積極財政を謳う政党が多い。
積極財政ブームの代表格である国民民主党はその支持者にMMTerを抱えているように思える。彼らの物語もずいぶん都合がいいなあと思うが、なぜか彼らも正しい財政観をもっていると主張している。
僕は彼らのことももちろん嫌いだ。
最後に日本の30年国債のチャートを見てみよう。これを見ているとなにか感じ入るものがあるのではないだろうか。
最近読んだ本
ここ最近ウエルベックというフランスの作家の書籍を読んでいる。
代表作は「素粒子」で、僕が読んだのは
闘争領域の拡大
プラットフォーム
といったところだ。フランス語は読めないためすべて邦訳。
主題はどれも似通っていて、主人公はほぼ必ず中年の白人フランス人で、必ず性描写がある。が、全く官能的な表現ではないし絶対フェラチオが出てくる。あとイスラム批判。
登場人物はたいてい何らかの自信を失っていて全く幸福にならない。性描写が多いわりに結果として子供を授かることはほぼ無い。
多くの場合、資本主義や個人主義的な考えが伸長するにつれて伝統的なキリスト教観や家族観、男女観が失われていく現代社会が舞台である。そのような社会では男女ともに享楽的な、時には逸脱した性や交際関係を謳歌するが、その結果として男は肉体的な衰えを社会的地位や金によって補強しなければそのような世界にいられないし、女も同様に時間とともに周囲からの扱いが変わっていくことに耐えられなくなるし、お金やスピリチュアリティは問題を解決してはくれないためどんどん惨めになっていく。
更には両者ともにそのような享楽的な世界においても別にそんなことは楽しいとも思っていない。
そのために最終的にはどちらも愛やヒューマニズム的な幸福や信頼関係が誰とも得られなくなっているというようなことがずっとずっと書かれている。
それぞれの作品ではモチーフとなるのはSFだったり新興宗教だったりアジアのセックスツーリズムだったりするのだが、要部としてはそういったことだ。スパイスとして随所にイスラム批判とアジアや仏教へのオリエンタリズムが散りばめられる。
資本主義が性関係や家族関係、道徳心にも影響をおよぼし、タイトル通り闘争領域が拡大していて、それが結果的に人の幸福にはあまりつながっていなそうというのは世間でも最近良く目にする意見だと思うが、ウエルベックは割とここに強い思いがあるように見える。大概登場人物が心を壊すかなんかして惨めに死んでいくのも何かを示唆しているんだろうか。
暗い小説であっても、最終的には何らかの救いがあったりするものなのだが彼の小説はかなり暗い結末が示唆されている。
ドストエフスキーとかはキリスト教的な小説だからあたかも神に命を捧げるかのような感じで感動的に終わる。そうなっていないのは多分キリスト教的な考えにもかなりの疑いを向けているからなのかもしれない。
愚かな考えを持つ人が書いた本を捨てるべきだろうか
少子化、進行していますね。
このトレンドは過去数十年続いており、それに対する対策は功を奏していないようだ。
少子高齢化で人口が減少していくということは社会保障費の増大や経済規模の縮小など、そこに住む人々にとって様々な困難をもたらしうる。
この現象がもたらす困難は多くのひとが共有しているものであり、その先に起こりうる悲観的な未来もまた共有されている。悲観的な未来への不安は人々にたいして、それを解決しなければならないという気持ちをもたせる。
そのような気持ちが表出されたような短文を最近目にした。
もう今の10代、20代には10年間の休暇を取ってもらって生殖と育児に専念してもらうべきではないか。代わりに生殖能力を失ったワイら氷河期社畜が骨になるまで働くという方向で手を打ちませんか、総理。
この文章を読んだとき僕は下記のような反応をした。
こういう連中って人のこと家畜だとでも思ってんのか?
アホくさ、一回人間のことを仕事以外の文脈で資源だと思うことに慎重になったほうがいいよ
この際に抱いた気持ちは現在も変わらないものだ。
考えてみてほしいのだが、仮にそのような社会に方向を切るとしてそれをどのように実現するのだろうか。
私には個人の意思や選択の自由を強権的に制約し、強制的に子供を生み育てるというような方法しか思い浮かばない。
手を打ちませんか総理という表現も意味がわからない。なぜあなたが総理と手を打って他者の人権を制約する施策の実施するのだろうか。
レーベンスボルンというものをご存知だろうか
人口増加政策はこれ以外にもこんなことが
具体的には、当時社会進出が進みつつあった女性を家庭(育児)に戻す政策や、多産を実現するため避妊具の広告を禁止、堕胎を行った場合は厳罰処分を科すなどといったものがあった。堕胎については、ヴァイマル共和政時代でも違法とされ罰金処分が科せられていたが、ナチス・ドイツ時代には長期の懲役刑が科せられるようになった。また厳格にするだけでなく、多産した母親に対しては、母親十字章を授与するなどしていた
おこなわれていたらしい。この人はこれをやりたいんですか?
実現可能性も低く、それで人口が増大する保証もなく、その結果もたらされるディストピアに人口が増えたとしてなんの意味があるのかという程度の想像力も無い雑魚。
というのがこの人への評価だ。
まだ小学校を出ていないのであれば理解ができなくもないが、彼は日本では著名なデータベース系の本を書いていてエンジニアになり始めたころは彼の書籍を読んでいたものだ。
彼の書いた書籍は捨ててしまおうか。
仮に個人の自由が増大したことや社会から婚姻や出産に対する圧力が減り晩婚化していしたり、子を持たないことや結婚をしない選択肢が個人や社会全体の幸福にかならずしもつながっていないという意見を持っていたとしても、それを修正するためになぜ強権的な方法を望むのだろうか。まあそこまで考えていないんだろうな。馬鹿だから。
ところで、現在の人口ピラミッドをみたらわかると思うのだがナチ施策を行ったとしても人口減少は避けられないだろう。長らく続いた出生率の低下の結果、妊娠や子育てが可能な人口は減っている。少ない人数の中で出生率を上げたとしてもそれほど増えはしない。
なので普通の少子化対策をしても人権を無視しても人口維持は期待できない。
そんなことを政治家や官僚が理解していないわけは無いので、少子化対策を重点的にやりますというのはお題目に過ぎない。
日本人はこの数十年何をしても子供をあまり産まなかったわけだし、他の国々をみてもある程度社会が発展すると子供をそれほど産まなくなるというのが今の所人間の性質なんだろう。
この日本社会を維持するには最終的には移民を受け入れたり社会の構造を変えることを受け入れるということをするしか無い。
いまはなんとなくごまかしながらそれが起こるまでの期間をできるだけ先延ばしにしているだけだ。
だから別に今の少子化という現象に個人がそこまでの危機感を持ったり危険思想を持つ必要はないと思うのだが、氷河期世代の哀れな人間は謎の危機感を持ってしまうのであった。
そう思うと愚かで逆に可愛らしいとおもってしまうな。